去年の2月に友人がマッコウクジラと泳ぎに行った。私はクジラの歌を作って送った。無垢なものだ。友人は見事にクジラと出会えて、興奮のままに買っておいたGoProで撮った映像を送ってくれた。青の中に光線が差して、奥の暗がりがよりぼやけてきたと思うと次第に何か形らしくまとまってくる。その瞬間がどこだかコマ送りしても不明なほどゆっくりと唐突に、そのぼやけた形態はクジラになっていた。あまりの大きさのせいなのか、天体のように遅かった。生き物との邂逅というよりは、惑星との邂逅と言いたくなるような圧倒的な存在感だった。その時私は陸にいて、それも地下の職場で、一体何をしているのだろうかと思った。映像が見せる世界に自分がいないことが、現在身を置いている周囲の状況が、あまりにもばかばかしく思えた。私はクジラと泳ぐことに決めてダイビングのレッスンを受け始めた。その夏にスキンダイビングのCライセンスをとった。今年の夏に一度スキンダイビングで海へ行った。海へ潜ったのはその二回だけだった。クジラは冬になると子育てのために南下してくる。スクールのボードにあるツアーの日程を見て、10月に決めた。なぜか友人が行ったのも10月だったような気がしていた。今回改めて確認してみると2月だった。それにマッコウクジラではなくザトウクジラだった。勘違い、思い違いというのは恐ろしいものだ。本当に。
2024.10.2 水
4日朝一番の飛行機に乗るために、3日の夜には千葉の実家に帰る予定でいた。成田空港の駅までは始発で行くにもその方が近いからだ。親にその旨改めて連絡すると母は忘れていた。飛行機の予約を確認すると、チェックインは90〜30分前までにせよとある。出発が定刻通りで厳守されることもこの航空会社の安い理由だから、早めに済ませるに限る。私は旅が嫌いではないが、こうした手順が厭わしくてたまらないあまりに家でうずくまっているような人物である。
7時発の飛行機だから、5時半から開始され、6時半に締め切られる。実家から行ったとしても始発でギリギリ間に合わないことが分かった。明日3日の夜には空港にいて、そこでうずくまって過ごすことに決めた。荷造りも何もしていない。本当に行くのだろうか。実感はない。風邪をひいたのではないかと思うほど体が熱ぼったくて重い。先週末からずっとそれが続いている。無理に予定を詰め込んだ弊害で、始終追われるように仕事をしていた。ろくに仕事ができるわけでないのが燃料であるから、絶え間なく黒煙を吐いている。
できないことを延々とやり続けるには精神力がいる。短時間で頻回に繰り返せる運動系であれば、初回よりも五回目、それよりも十回目と続ける中でできなかった事のいくつかが改善されたことに気が付きもするので、それがやり続ける動力になる。しかし能力を超えた仕事を暗中模索しながらとにかく形にしなければならず、どこまで行っても最終的には他人のジャッジによって根底から覆され、はなからやり直しになるかもしれないことに取り掛かり続ける動力は何か。恐怖である。身内のジャッジに刺される恐怖ではなく、外的にお披露目した時に、何も聴衆に効力を生まないのではないか、かえって損害にさえなりかねないのではないかという恐怖である。また、仮にうまく受け入れられなかったとして、そんな聴衆を蹴飛ばせるほどのことをしてきた自負があるかという問いに答えられない恐怖である。恐怖への対策というのはどこか単純なもので、実作業の積み重ねあるのみである。難しいのはそこへ向かう自身のコントロールだが、私は自分の制御能力を見誤ったスケジュールによって身体が膨張したように熱く、頭が霞にのまれていた。
何を持っていかなければならないのか、はっきりしていない。暑いのか寒いのか。雨は降るだろうか。お気に入りの折り畳み傘は失くしたまま一向に出てこない。私は水筒に水道水を流し込み、黒いスニーカーを持って、ダンスのレッスンに出かけた。途中何度も引き返そうと思った。体の中身がどこかへ行ってしまって帰らないようだった。下を向いて、つま先だけ見て歩く。支払わなければならない金銭があるという言い訳を手綱にしてスタジオについた。踊ったあとには、胸が上を向いたので少し視界が開けていた。血の巡りが良くなって、すぐには眠れなかった。頭の中はやはり空だった。大きめのリュックに必要そうなものを詰めた。ノートパソコン、ゴーグル、シュノーケル、水着、Tシャツ。明日仕事から帰ってから改めれば良いことにして、面倒になったので寝た。
10.3 木
先輩が休みで同職種は私一人だった。最初に来たのは、初めて会う人で、先輩がいないなら連絡をくれたらよかったのに、あなたがどうというわけでもないけれど、なんのかんのと言いながら来て早々帰ろうとする。流石に帰ろうとされたのは、私も初めてだ。一体何をしに来ているのか。なだめるように適当なことを言っているうちに、グイグイとその人は喋り出して、結局予定通りの時間いっぱい滞在した。それ以降は比較的スムーズだったが、夕方には糞詰まりになってしまった。私の仕事はほとんどが接客だから、対応内容が不味ければ送り出しても帰ってくる。午前最後に応対して、送り出した人が夕方に帰ってきた。その日のうちに戻ってくれるのだから、まだ幸というものだが、私は力量のないことをさもあるかのように振り回して1日を追い払っているのに過ぎない。全く浅はかである。その力量のなさの実質はコミュニケーション不足に他ならず、その核は相手の話を聞いていないことであるのに相違ない。
昨日詰めたリュックは重いから置いてこようと思ったが、一度戻るのも面倒になり、何か足りなければ行った先でどうにかしようと思って、背負ってきたのが幸いだった。定時で帰れるかと思っていがそういうわけにはいかなかったので、朝の自分の判断を褒めた。それから有楽町で「ソング・オブ・アース」を見た。大自然の中で生活する人の映画だから、奄美に行く実感もない私は前日に見ておけば少しは盛り上がるかと思ったのだった。上映中には何度も深い眠りから覚めた。何度も覚めるくらいだから、浅いのではないかと思うが、時間的に短くとも眠りは深くなるものだ。目を開くと、凍った大河をスケート靴で滑り行く人や、解けた春の水面をカヤックのような細いボートで静かに進む人やスクリーン目一杯の満月や、その光が映り込んで輝く紡錘形に膨らんだ水平線などが広がっていた。とても綺麗だった。音楽は重低音がよく効いて、映像の世界にさらなる奥行きを与えていた。駅前の中華でラーメンと半チャーハンを食べて、日暮里からイブニングライナーで成田空港第一ターミナルに向かった。とにかく眠かった。
航空機の手配は嫌いだが、空港は好きだ。そこは旅の喉元で、胃液に飛び込むまでの日常と非日常がないまぜになった愉快で曖昧なひとときである。人気のない白い通路の先の24h営業のコンビニで軽食を買ってウロウロしていると、改札周りのシャッターを下ろして閉めるからその一帯から離れなさいと警備の人に言われた。角のベンチで仮眠しようとしていた人や同じくウロウロしていた数名とともに追い出された。
国内線の搭乗手続きカウンター付近のベンチへ行くと、空港泊の人らがポツポツといた。私はそこに加わった。持ってきていた数冊の本の中から知人が書いた小説を選んで読み始めた。しばらくすると電灯が消された。わずかに残った非常灯の薄い光線で、だたっぴろい空港は途端に小さくなった。数列のベンチにより集まった旅人たちの寝相の一つ一つが近くなった。何かを待っているための場所は、自分を宙吊りにしておけるからか、どうにも居心地がいい。
10.4 金
9時には奄美大島に着いた。知人の小説は読み終えていた。他人との関わり方を模索する人が主人公だった。観光案内所にあった地図を眺めた。田中一村記念美術館が空港近くにあった。どうしても口が田村と言おうとするので、文字列を何度も確認する必要があった。美術館は奄美パークという奄美大島の文化を紹介する施設の敷地内に併設されていた。空港を挟んで反対側に貝塚の遺跡があることもわかった。パークへ先に行って、貝塚へいき、空港まで30分ほど歩いて戻ることにした。
バスで奄美パークに着くと何か食べようと思ったが、中の飲食店はまだ開いていなかった。受付で貝塚に行くためのバスの時間を聞いた。受けつけの人は困っていた。その路線は今月から廃線になるんです。もう決まっているんだけど、適用されてるのかな。ちょっと聞いてみます、と言って方々へ電話をかけてくれた。なかなか返事が得られないので展示を見てこようとしたちょうどに電話が鳴って、やはり廃線になったのでタクシーで行くしかないということがわかった。
文化紹介の展示を見て回るとやたらとお祭りが多いというのがわかった。八月踊りというのがお盆のお祭りのようだった。他に海際での神事が多かった。やはり島である。八月踊の紹介で映像に合わせて振りを覚えて、指示に従って踊ってみようというブースがあった。フリがあっていると得点になり、間違えずに続けられたり、タイミングがあっているとコンボになってどんどんと加算されていく。それなりにいい点数だったと見えて、ランキング1位になった。ダンスを続けてきた成果かもしれない。本日の得点の履歴には私と同じ得点数一つだけが表示されていた。
田中一村の展示を見にくと、主要な作品のいくつかは上野での田中一村展に貸し出されていて複製が展示されていた。それでもいい絵であることは十分にわかった。奄美での作品以外では山紫陽花を描いたものが特に気に入った。この人は植物の他に鳥が大好きだったようだった。奄美に移ってからは染め物の職人として働き、数年かけてお金を貯めて、仕事を辞めて数年絵を描き、展示をして、職人に戻り、という計画を立てていて、仕事を辞めて絵を描くところまでは計画通りに行ったものの、展示をすることもなく、そのままずっと絵を描いていたようだった。自分の良心に向けて描くのであってそれ以外はどうということでもない、というような言葉が残っていて、いいことを言うなと思った。
晩年の作品から見始めたせいかどうか、日本画だということが分かるまで少し時間がかかった。奄美での絵は、それほど独特の風貌をしていた。肉筆画の表面には僅かに盛り上がりが見て取れて、艶かしかった。海老と魚がぎっしりと密集しているくせに、整然と並べられた絵は複製画でも迫力があった。絶対に関連も何もないだろうに、どうしてもこの絵から想起される絵があったが、名称も作者も不明なので調べてみた。山下菊二の描いた「あけぼの村物語」だった。実際の事件の、その前後を題材に描かれた作品で、おどろおどろしいが、部分的にはコミカルでさえあり、緊迫したものが漂うくせにあっさりした夢のようである。なんのことやら。土地の匂いが立つような雰囲気と、凝集された画面の感覚がどこかで結びついたのかもしれない。
外へ出ると一村が描いた植物を植えたエリアが広がっていた。どれも魅力的だったが、鳥のような形のオレンジの花が咲いているのが一番気に入った。そのエリアの奥に立つ展望台へ登ったが、特にどうということもなく、高いだけで、海が光っているのを見て、すぐに降りてしまった。居合わせた観光客が一人でずっと写真を撮っていた。撮影の間中嬉しそうにほんのり笑っていた。
パークに戻ると食堂が開いていて、私は鶏飯を頼んだ。充電が17%くらいになった携帯をなんとなしに見ると、職場の先輩から連絡が来ていた。昨日応対して、夕方に戻った人からどうにも昨日から調子が悪い、それまで問題がなかっただけに気になって仕方がない、どうにかしてくれとの連絡があったそうだ。対応して、という内容だったので、連絡を返した。私はそれですっかり塞いだ気持ちになってしまった。
食べた鶏飯が腹の中で石になっているかと思うほどだった。子山羊に石を詰められた狼は井戸へ落ちるが、体内の状況はなかなか近しいものがあるらしく、騒がしかった。空港までバスで戻って、タクシーを拾う作業はもはやできないことだった。まして遺跡を練り歩いて、空港まで帰り、さらにバスで市内へなどと想像するだけで余計に疲れた。パークからそのまま市内へバスで向かった。前の方に座ったら、ポスターやら何やらで窓が塞がっていて外が見えなかった。前方も段差になった台にボードが打ってあり、何も見えない。輸送中の非常用のトイレのなかはこんな感じかなと思うなどして寝た。
宿に着くと荷物を置いて、外へ歩きに出た。宿泊の領収書の端に関連施設でのコーヒー割引券があったのでそこを目指した。コーヒーだけ持って海際の駐車場に出た。漁港は移動したらしく、市場だったらしい建物はシャッターが下りていたり開いていたりした。正面と思しき位置に張り紙がしてあり、移動先の説明があった。座ってしばらく海面を眺めていたが、暑いのでやめた。人の出入りがなくなって、錆びるばかりの建物を眺めた。内部ががらんとしていて、残された壁のいくつかにはスプレーで文字や絵が書いてあった。日が暮れると彼らはここを溜まり場として集まるのだろうと思うと、とても素敵だった。カメラを置いてきたことを少し悔いて、そのぶんじっと見つめた。カメラは宿に置いた気がしたが、そもそも家から持ってきていなかった。
宿の向かいのコンビニでカフェオレとおにぎりとお菓子を買い込んで帰った。帰るとパソコンを開いて仕事をした。つまらない話だ。夜になると鰻を食べに出た。街の地図でチラと見てから決めていたのだ。三昌亭は老舗らしかった。鰻重と肝串を頼んだ。急須ごと来たお茶を紅い九谷焼で飲みながら奄美新聞を読んで待っていると、船橋アンデルセン公園でおばけススキが見頃と写真付きで紹介されているのを見つけた。地元のニュースを奄美で見るとは思わなんだ。妙な心持ちで、前からこの店に通っているような気になった。品が届くと、お吸い物も茶碗蒸しもついていた。炭火で焼いた独特の火の匂いが移ったような焦げから始まって、肉厚の身と染み込んだタレの甘みがたまらなかった。私はうなぎが大好きだが、これまでで一番かもしれない。
幸せな気分で店を出た。もっと奥へ行くとあるらしい高千穂神社へ行こうと思ったが、なんとなくよして、市内を歩いた。昼間に外へ出た時の方向感を頼りに、海へ向かって歩いた。飲み屋や食事処が集まった通りを抜けると、商店街に出た。明かりはついているがもう誰もいない。おりたシャッターに山形屋とあり、ああここはやっぱり鹿児島なんだと思った。ジョナサンがホームセンターではなく、ファミレスである場所。そのまま人気のない商店街を歩いた。暗い看板の脇に青いタライが置いてあった。中にはどうも死んだ珊瑚のような棒状の白い、互いを打ち鳴らすとリンと鳴るものと、握ると具合の良い大きさで全体に無数の気孔のあいた白い塊などがザラザラとあけられていた。タライにはご自由にどうぞとあった。これはとても良いものだと感じて、握ったり放したり、鳴らしたりして選んだ。膨らみの多い勾玉のような塊と、餃子か雲か子供の掌のような形の白いものを選んだ。握って歩くとさらに具合がいい。手の内に沿う。あまりしっくりくるので自分の手から出ていって、あそこで私をサボっていたのではないかと思うほどだった。見つかってしまったね。おかえり。
グリーンマートへ入り何も買わずに出た。どこへ行きたくもないがなんとなくの定めた方向だけ守って歩いた。川沿いの道をいくと、途中から水だった。今日は新月で大潮なのだ。信号が赤く映ってギラギラした。すぐ横の道を陸から少年が自転車で過ぎていった。公園には誰もいないが、白い街灯に照らされて、先の尖った大ぶりの南の植物がよく見えた。一つ陸へ入り直して、歩き出した。暗がりの中に遠く橋が渡っていて、街灯が二つだけ光っていた。その先に薄い小豆色の光が四角く見えたのでそこを目指すことにした。AEONだった。インベーダーゲームの宇宙人の絵が壁面高くに描いてあり、アミューズメントのエリアに行かねばなるまいと思った。入ってみると意外と狭かった。ほとんどがUFOキャッチャーだった。とりあえず品を見ながら通り抜けて、隣にある文具売り場に出ると、書道用具のコーナーで防犯カメラとその映像を映すモニターと目が合った。モニターに映し出された私は浅葱色のキャップを被り、ツバに備え付けられたような大きめのメガネをかけていて、髭がのびて頬がこけていた。面白かったので写真を撮った。写真を見るとこの人怖いなと思ったので、そうそうに降りて、食べ物と飲み物をたくさん買った。
旅先を練り歩くのが好きだ。観光名所でもそうでなくとも、その街に暮らしていたらいくだろう路地や、なんとなく疲れて座るだろうベンチや、一人でいたくなる時にいくだろう公園や、海と川の接合部や、十字路の一角でなぜか街灯の光を単独で浴びている旧花壇に生えたぼうぼうの草むらなど、なにかそういう街の七癖みたいなものに会うと、自分もその中の一つのように思えるのかもしれない。許容されていく気がする。一通り練り歩くと、着いたばかりよりもこの街のことを知った気になれている。あっちにいくと彫刻がいっぱい立っている公園があるよ。管理があまりされてなくて草が長いから足を切らないように気をつけて。端っこで暗いけど、ベンチがあって気分がいいよ。近くの自販機にはヤモリがいた。パインのジュースが飲みたいな。
近隣にあるホテルⅡへいって、大浴場に浸かった。明日は海でこうするのだ。ホテルの朝食の時間と集合時間の間が1時間あるのを見て、でも起きられないから、30分だなと確認して眠った。
つづく