奄美大島紀行 終わり

10.6(日)

 もうほとんどのことを忘れてしまった。

 思い出せることには限りがある。覚えられることに限りがあるからか。注意の焦点が知覚を制限するからか。記憶に容量はあるだろうか。記憶力を競う人たちの言うことには、何かと連関させていくことが重要らしい。対象に紐づく物事が多いほど、イメージとして全体が想起されやすいそうだ。思い出したいことが明確な場合はそうだとして、何事かをなんとなしにふと思い出すときは、記憶した状況全体のイメージの構成要素の方が先に揃って、対象を呼び出すのだろうか。するとデジャビュというのはそういう方向性を持った記憶なのかもしれない。デジャビュは未経験のものを言うから、対義語とされるジャメビュの方が近いような気もする。経験しているはずのものを未知のものと感ずるのも、経験していないはずのものを既知と感ずるのも、筒の両端から私に迫ってくるが、記憶や思い出すという作用自体とはまるで無関係のことにも感じられる。水平線は地平線にとって変わるだろうか。

 昨日と違ってよく晴れていた。沖合に出ると空も海も青が濃かった。Cさんの助言通り、初めから姿勢良く座っていた。朝食の量を抑えたのも良かったのだろう。昨日のことが全く嘘のように酔わなかった。人間の平衡感覚は三半規管と体性感覚、視覚情報で支えられているから、視線を固定して背筋を伸ばしてじっとしているのは理に適っている。頭部を揺らさない方が半器官内の耳石への影響も抑えられるし、シャンと伸ばしていた方がやはり揺れにくい。

 昨日はどこかへ食べに行ったのか、と船長が聞くので、喜八に皆で言ったと答えると、昨日帰ってきた娘が行きたいと言うので行ったら満席で入れなかった、あそこはうまいよ、島の味だ、と言うことだった。懐メロを浴びながら海面を眺めた。小さな波がいくつも絶え間なくたっていて、先端が白く明滅していた。白兎とはよく言ったもので、跳ねる兎のような柔らかいカーヴを持っていたし、ざぷと出てきては去ってしまうまでの束の間に実際跳ねていくような躍動が感じられた。船の近くでも、さらに遠くでも水平線の手前程度でも、変わらずにざぷざぷと兎は跳ね続けている。斜めに出る2mのブローとはどんなふうに見えるだろうか。手前でならそのサイズ感がわかるかもしれないが、より遠くの方ではどの程度のサイズ感なのだろうか。凝視していると周辺視野でチラつくものがあり、ブローかと思えば波のちらりで、いやしかし、混じってしまっているだけかもしれないとそこをじっと見ていると、また端の方でちらりちらりと飛び跳ねる。船長は、一度ブローが出たら、続けて何度か噴くから見間違いようがないと言った。

 確率の高いエリアを回ったが、やはりブローは見つからなかった。ゼットのブローさえ見当たらなかった。途中で声を直接聞いてみるためだったか、もう覚えていないが、みんなで一度海へ入ってみることになった。鉄塔を逆さまに海へ突き刺して浮きを付けたような人工物がポイントだった。Cさんの指示に従ってスーツを着る時に、頭を先に入れないように、死ぬから、と言うのが印象的だった。実際そのスーツは驚くほどぴっちりとしていた。一人で着脱しようものなら確かに窒息死は免れ難い。

 海へも入らずにツアーが終わるのかという恐れがあったから、本当に嬉しかった。人工物の周囲には魚がぐるぐるしていた。数はそう多くない。指先から肘を越えるかどうかの大きさに見えた。潜ってみたがうまくいかなかった。ウェイトをつけていないことに気がついた。スーツの浮力は相当なものだった。その分フィンで頑張ることにした。何度か潜ると少しマシになった。みんなどんどん潜っていく。鉄塔の下をくぐるほどの人もいた。海面に浮上するときに船を見た。とても小さい船に見えた。船底はきらめいた海面の裏に縫い付けられたボタンか、小さな生き物用のドアに思えた。何度目かの浮上の後、何も見えなくなった。青しかなかった。右も左もなかった。ぐるぐると回っていると、離れたところに小さく人が見えた。寄っていくと鉄塔も他の人もいた。沖の海中で見る人工物の安心感はまるで想像していなかった。これほど同種族の営みを感じるものはない。それは自らの無事を保証してくれる存在に見えた。

 Sさんが大きな体をゆっくりとうねらせて潜っていく。その柔らかさは他の人の潜り方とは明らかに異なっていた。力を抜いて棒のように潜り進んだ後で、背中にクラゲが入ったように浮かんだ。魚が寄ってきていた。Sさんはしばらくそこに留まっていた。脱力した姿勢のまま雲のように浮上してくる姿に魅入られてしまった。これがフリーダイバーかと思った。元プロのSさんは水深を競う種目において、10年近く経つ今も塗り替える者がおらず、世界記録を保持しているそうだった。後で調べたらその深さは115mだった。今潜っている位置は10mあるかどうかに見える。Sさんの足先に少し大きな魚がいて、そのまま見つめているとずっと奥に似た形の濃い青があった。そしてその先にまたひとつ濃い青があって、やはり魚の形をしているのがわかった。急に海が奥行きをもった。鉄塔の先までしか遠近が分からないでいたが、はるかその先までずっとここは深いのだ。今までと違う軸が急に生まれたようだった。その魚影の青と奥行きにたまらなく惹かれた。同時に見覚えがあった。関東に戻ってからもずっとそれがなんなのか分からずにいたが、ふと自室を歩いているときに気がついた。あれはミラーハウスだ。合わせ鏡の無限に続く連続の中に生まれる鏡の重なった碧の影。三面鏡でもいいが、鏡のわずかなズレが連綿と繰り返す反射の中で暗がりになるあの感じ。それに違いなかった。沖の海には無限があったのだ。あの鉄塔の先よりも、ずっと奥へ入っていきたい。

 何かの鳴き声か耳鳴りか、不明なものをCさんが皆に尋ねて確かめた。海面から頭だけ出しての会話は不思議な光景だった。人それぞれれが小さな喋る島だった。

 もっと潜りたかったが、船に上がり、またブローを探しに移動した。鉄塔をくぐっていたHさんが私の着ているスーツを見て、それスピア用ですね、魚突きの、といった。ドラゴンボールの敵が着ているような模様の腹当てがあった。用途は不明。いつ出るともしれないブローから着水まではモタモタしていられないために、一人では脱ぎ着できないスーツを着たままにした。他の人は上だけでも脱いでいる。真水で体を流して日焼け止めを塗り直している。私はそのままにして座っていたら手首にクッキリ線が引かれて、手袋をしたように焼けてしまった。

 結局またしてもブローさえ見つからず、クジラは幻となりまた爆速で帰港する最中同船者とさまざま話した。Sさんは写真家でもある。夏にSさん経由で参加した友人も写真家で、私が今回参加することを話していてくれたこともあって、写真の話を少しした。Sさんはゆっくり静かに話す人だった。私にはそれがとても心地よかった。

 船を降りて、飛行機の時間の早い人やもう数日滞在する人やで流れるように解散になった。Cさんは私を空港まで送ってくれた。道中こっこという卵の店に寄って、シュークリームをご馳走になった。こっこは鹿児島で行ったことがあって懐かしかった。鹿児島の店は店内にレストランがありオムライスを食べた。裏手の広大な敷地で鶏が飼われていた。山羊もいた。奄美大島の店はそれに比べると小ぶりだが、ここはやはり鹿児島なのだと思った。空港が近づいて、奄美パークが見えたので、田中一村の話をするとCさんはよく聞くけど毎回名前が覚えられないと言っていた。一村の名前を雰囲気でだけ覚えていて、再現できない間違え方で名前をいくつか挙げていた。そして何より私が奄美パークに寄っていたことに驚いていた。これまで何度も来ているし、お客さんの中にも何度も来てる人が多いけど、行ったことないし、行ったっていう人は聞いたことがないそうだった。展望台にも登ったことを言い添えると、ふうん、今度行ってみようかな、と奄美に対する不義理を感じたかのように呟いた。

 空港の売店大沢たかおに似ている大男とスポーツ選手の二人組に会った。後から出たはずのSさんの車にこっこに寄っている間に抜かれたようだった。ハブ酒を買っていた。そういえば喜八で大沢たかおハブ酒を飲んでいた。香りだけ嗅いだが、甘味のあるハーブの香りがして皆一様に驚いていた。

 覚えているのはそれくらい。

奄美大島紀行 つづき

10.5 土

 目覚ましが鳴って、朝食開始の時刻に目が覚めた。その時刻と朝食とが結び付かなかったため、また寝た。何か大事なことがあった気がしたまま眠るなか、不意に朝食の時間がどこかで設定されていることを思い出して起きた。集合時刻まではあと30分だった。準備をして食堂へ行くとバイキング形式で、思っていたよりも食べ物があり、どれも一つは食べたいと思った。私はこういうホテルの朝食バイキングのオレンジジュースとコーヒーが好きだ。パンとソーセージとハムとその周辺を盛り合わせて、ジュースを注いだ。のんびりしていると15分ほどが過ぎていて、集合場所へ迎えが来ることに緊張し始めて急いで食べた。あれもこれも食べた。オレンジジュースで最後には流し込み、コーヒーは諦めた。時間の5分前に集合場所へ着き、インスタントラクターのCさんを迎えた。Cさんは私がダンスを習っていて、発表会があると話していたのを覚えていてくれた。本番前は多少緊張したという話になると、Cさんはまるで緊張することがないそうで、本気が足りないんだよねと自虐的に言ったが、リラックスしているということはよく集中できているということだと思う。別のホテルでもう一人の参加者と合流した。Rさんは珍しくCさんの所属するスクールでレッスンなどを受けたことのないツアー単体の参加者で、Cさんも初めて会う人だった。痩せ型のよく焼けた肌に白い服を着てショートの金髪にサングラスだった。人見知りして緊張したが、後になって目が優しいことが分かってホッとした。夏に別のツアーで鯨に会えず、同じ奄美大島でリベンジしに来ていた。

 港に着くと、船長がいた。よく日焼けして、腕も胸も腹もよく張っている。不思議な肉体である。鯨の尾鰭の形をした金のネックレスをしている。Cさんと船長は実に親しい様子である。そのうち別の組が着いた。Cさんのスクール経由の鯨ツアー常連組と、元プロのフリダイバーのSさん経由の組だった。総勢11名。

 船長によるとここ四日ほどは鯨の姿が見えないそうだった。ただ、一頭はいつもいるらしい。鯨は繁殖のために来ているから伴侶を求めているわけだが、その一頭は相手がてんで見つからず、成立したカップルに突撃するなどを繰り返して他の鯨から随分嫌われているらしい。その鯨が呼吸しに上がるエリアでは、その鯨がいるがために他の鯨が避けて、全く姿を現さないという始末だそうだった。確かゼットという名前がつけられていた。それは別の海で同様の嫌われ方をしている別のクジラの名前だそうだった。

 マッコウクジラは頭が四角く大きい。そこに脂肪がたくさんあり、水圧に合わせてその脂肪を固めたり溶かしたりコントロールしているらしく、実に深くまで潜るクジラとして知られている。奄美大島の我々が出た側の海は、沖へ出るまでは浅いエリアが続き、その先で深くなっていて、マッコウクジラはその際の水深が9000m前後になるところで頻繁に観測されている。それ以上浅いところには来ないそうだ。船に乗るとまずはその深さまで出ていくことになる。ポイントに出てからは、クジラのいる証である潮吹き(ブロー)を見逃さないようにじっと周囲を見つめて過ごすことになる。クジラの種類によってブローは特徴があるらしく、マッコウクジラのブローは斜めに2mほど出る。

 あまり長い時間船に乗った経験がないので、念のために酔い止めを飲んで乗船したが、見事に酔った。ポイントに行く途中でイルカの群れに遭遇したので、幸先がいいなどと喜んでいたがダメだった。もう気持ち悪かった。大沢たかおに似ている大柄な男がいつの間にか寝ているのを見て、私も寝た。大型船が数隻彼方に見えるのを除くと他の船は一つもない。ポイントへ向かう最中は猛スピードで豪快。寝そべると身体中に船のエンジンと波を叩く振動とが響いて気持ちが良かった。そのうちすっかり寝てしまった。人の動く気配がしたのか、目が覚めるとお昼前だった。鯨がいればいい位置に寄って船をとめてダイブするから、食事は決まった時間があるわけではなくその時々で食べられるように皆軽食を持参している。やはり12時頃になると腹が減るのか、あまりに鯨が見つからないので手持ち無沙汰なのか、ガサゴソ誰彼となく食べ始めていた。水でも飲もうと思って起き上がると気持ちが悪かった。縦になるとダメだった。横になっても体が痛むし退屈してきてまた縦になる。いっそ場所を変えて海を眺めようと立ち上がると、私はすぐに理解した。そして静かにトイレへ行き吐いた。港から帰る車中でCさんにその話をすると、トイレが詰まるから海へ吐きなさいと注意された。序盤でトイレが詰まらなかったのは幸いである。海へ吐いていれば撒き餌になって何かが寄ってきただろうか。

 Cさんから背筋を伸ばして遠くを見ているのが良い、上の方が振動が大きくなくて楽だよ、と助言を受けて操縦席の後ろに並ぶベンチに掛けた。関西弁のお姉さんが酔い止めの薬を分けてくれた。黒づくめのお姉さんが体調を気遣って声をかけてくれた。頭がぼーっとしたままで、低気圧による頭痛とだるさに重しされているときと似ているなと思った。気持ちが悪いので背筋を伸ばす気力もない。助言は嘘じゃないか。気がつくと項垂れてより気持ち悪いので、助言を思い出して顔を上げるが、もうどうやっても気持ちは悪かった。酔うかもしれないとは思ったが、これほど早く吐きまでするとは我ながら予想外だった。朝食を食べ過ぎたのに違いない。フレッシュなうちにあまり揺さぶったものだから何を勘違いしたのか飛び出していったのだ。船長は足を伸ばして海を見つめながら懐メロに聞き入っていた。もはや船というものは自動操縦で、目的をGPSで設定すると適当なところで自動に曲がりさえするのに驚いた。小さくなった島の際で大きな雨雲が止まっていて、強い雨が降っていた。あまり遠方から見ているので、雨は止まって見えた。雲の真ん中が墨流しに引き摺られて、灰色の濃淡が陸地になっていくようだった。その上下に空と海が一文字に青く引いて掛け軸になっていた。飛魚がたくさん飛び、あまりに長距離を滑空したのがあり、同時に見つめていたおじさんと感嘆した。

 どの方角を見ても海面しか無くなった。ブローはまるで見つからない。海は凪いで実に静かだった。条件は揃った、と誰かが言った。凪いでいる方が鯨が出るのかと誰かが返した。白波が立つとブローと見分けがつきにくい、と最初の誰かが答えたのが聞こえたが、あまりよく理解できなかった。そのまま船は延々と走った。粘り倒した挙句帰ることに決めてからの船長は追われるようにもの勢いで船を走らせた。明日は延長して前倒しで出航となる。明後日帰る人もあり。私は明日の夕方には飛行機に乗る。

 

 皆で食事をとなり、時間になったらお店に集合として解散。一度帰るとアラームを設定してまた眠った。喜八で夕飯。隣の席になったくじらが大好きなKさんの話は思っていたよりも濃かった。家にあるクジラの骨が臭いそうだ。初めは肋骨を一本。ためつすがめつするうちにそれでは飽き足らなくなって、全身の骨格標本を買ったが、全長5mにも及ぶからバラしてまとめてあるが、あまりくさいのでベランダに置いてシートをかぶせている。窓を開けていると少し臭いらしい。恐ろしい絵面だ。それが二体分ある。潜った先で拾った鯨の糞を乾いた状態で保存所持していたり、鯨の乳を掬い上げてきた他のダイバーから受けてすぐさま啜ったりと愛が止まらない。鶏卵を水中で割る動画をどこかで見たことがあるが、水圧が卵殻の役割をするので卵の中身は卵形を保ったままふよふよとしていた。同様に鯨の乳もクラゲのような塊でふよふよとしていたらしい。味の感想は忘れてしまった。酒の勢いもあって増すばかりのKさんのクジラ話の中でも、ザトウクジラのヒートランに混じりたい、というのが極北である。メスを先頭に200頭ほどが求婚するらしい。巨大な鯨の群れ。その中にKさんを見るかと思うと面白くてたまらなかった。ウォーリーを探せみたいだ。

 他の参加者も皆鯨に詳しい。そして旅慣れている。北海道の知床ではシャチが観測できるそうだ。フィンランドではシャチスイムもある。海のギャングは人間を襲わないらしい。まさか一緒に泳げる生物だとは思わなかった。昔読んだ本に「オルカの歌が聞こえる」というのがあって、バンクーバーの海をカヤックで行く主人公の父はフルートを吹き、オルカと一緒に歌っていた。主人公たる少年はフルートが吹けないので、父お手製の振動膜のついた小さなラッパを水面に当てて吹く。オルカとコミュニケーションが取れるようになった少年の冒険譚、といった内容だった気がする。私にはラッパもないが、海中に入れば良いわけだ。ちなみにオルカはシャチのことだが、カナダの他でもそう呼ぶのかどうか知らない。スリランカも鯨がいる。ザトウ、シロナガスなど皆色々なところで色々な鯨と出会っている。

 喜八の料理はたまらなく美味しかった。おまかせでどんどんと出てくる。中でも煮物の中の芋が美味しかった。タイモと言っていたか。里芋寄りのジャガイモのような食感と味がした。夕飯後は近くの公園でやっているお祭りを覗きに行った。住宅に囲まれた小さな公園だった。数十名が輪になって、中心に向かって一箇所を輪切りにするように鉄パイプの門が仕立てられていた。終いまで何の役割を持つのか不明だった。盆の八月踊り。昨日奄美パークで見たものだ。まさか十月にやっているとは思わなかった。時期の都合は知りかねる。振りはいくつもあり、奄美パークで一位になった時の振り付けとは違った。中央に酒や食べ物が乗った机があり、横に立った男が寄付金の額と名前を数名読み上げていく。それを輪になって囲む人のあいだで太鼓がのったりバラバラに打ち始められ、誰かが歌を載せるとそれが次の人へと歌いまわされ、手がつき足が出て踊り始められていく。歌には上の句と下の句があるが、だいたい上の句だけで歌い回される。古くはしりとりのように繋げていく掛け合いだということだった。連歌のようなものだろうか。〽️あんたバカね、とくれば、バカなのはあんたよ、という調子で歌い回されるらしい。まばらに打たれていた太鼓が揃い始め、歌がまわり踊りがつくと次第に速度が上がっていく。倍ほどになったと思うところでひとしきり踊ったらぱたっと終わる。足の出し方というかつき方が独特だが、パターンの繰り返しなのでハマると混然とした一体感が出るので面白かった。飲み食いしているうちにまた中央の男が数名の寄付の読み上げる。拍手。太鼓。歌。踊り。

 予習のせいか、振りをなんとなくでも真似るのがうまかったらしく、同船者たちが褒めてくれた。Cさんが私のことをダンサーだから、と言うとみなして驚いて信じてしまいそうだった。と言うよりは本当にそうなら面白いのに、という好奇心が噴き出ていた。私がダンサーでないことは無念である。衣装を着て踊るおばさんの一人が、七割近くまだ中身のある一升瓶を頭頂に乗せたままスイスイと踊っていた。時折早足で端から端まで移動した。その間も両手は魔を外へ払い、福を招きしてくりんくらんと揺りまわしていた。ずいぶん長い間そうして踊っていた。同船者にスポーツ選手がいて、鬼の体感を発揮せんとその一升瓶に挑んでいたが、手を離してちょっとしたらもう酒瓶は倒れてくる。私にも回ってきたが、頭頂部へ載せて立っているだけならまだしも、これで両手をあげて回すなどできる気がしなかった。バナナや梨や奄美の甘酒(名称は失念した)などをいただいて、おひらきになるまで踊った。帰りがけにはCさんとRさんと24h営業のグリーンマートに寄った。Cさんは特産品をあれもこれもと教えてくれた。島バナナという握ったらすっかり全体が手のひらに隠れてしまいそうなサイズのバナナが房で売っていた。けったいな値段だったが、他で買うとさらに高いよとCさんが教えてくれた。ホテルの前の商店で小ぶりの房が売っていたので買った。値は忘れたが、バナナの値段ではないなと思う。

 大浴場に浸かって、戻ってから昨日買っておいていたパンを食べた。頭がグラグラと揺れ始めた。今日の船酔いの原因の一つは直前に朝食をたくさん摂ったことだろうか。船の上ではあまり食べる気がしなかった。明日は酔わないといい。しゃがんだり下を向いたり、体が曲がっていると酔いやすい。気持ち悪くなる前に背筋をシャンとしてみよう。何の夢も見なかった。眠ったままずっと起きていた気がする。

 

つづく

じゃり

 カステラの下にさ、砂糖じゃりじゃり敷いてあるの好き? 私はあれ嫌なんだ。食べられないことないけど、砂噛んでるみたいでカステラの味とか食感楽しめなくなる。あれどうして敷き詰めることにしたんだろうね。ないやつもあるけど、あるのとないのとで製造元の態度はどう違うんだろうね。カステラ甘いしもったりしてお腹に溜まるしそれだけで十分なのに、なんで敷くんだろう。しかも結構大粒だよね。ショートケーキのさ、下に砂糖敷かないじゃん。スポンジケーキがざりざりしたら嫌じゃない? タルトだって上に載るのはふわふわじゃないもんね。でもカステラはそこ攻めてくるよね。オランダのスタイルなのかな。ポルトガルか。長崎のスタイルなのかな。カステラと合うのってお茶かな? 紅茶? コーヒー? あったかいのがいい感じするね。長崎行ったことある? 私ないんだ、どうだった? 五島列島とかさ、あのギザギザの湾とかすごく魅力的だよね。誰だったかな、友達のおばあちゃんが五島列島の出身で、眺めが似てるからって、逗子のもっと先のどこだったかな、あのあたりの海沿いにお墓買ったんだって。この前銭湯行ったら、初めてのとこだったんだけどね、サウナがあって、お、いいねと思って入ったらテレビがあってさ、テレビって久しぶりに見たけど、サウナに置けるんだから丈夫だよね。それで、鳥取のさ、海沿いにある墓地の特集組まれてて、お盆になるとお参りに来た人の灯りで夜すごいんだって、何送りって言ってたかな、その地域の習わしだよね。来てる人が毎年その写真撮っててさ、数年前の写真見ると、灯りが三分の二くらいになってるのね。墓地の中にも墓じまいする人が多いから空き地が出てて、高知の方に墓石の墓場があるらしいね。墓じまいした墓石が山と積んであるの。荘厳な遺蹟の壁みたいに聳えてるけど、中に空間があるわけじゃなくとにかく敷き詰めてあって、正面に彫った名前とかがあっち向いてたりこっち向いてたりするわけ。結構迫力あるんだよね。それもずっと前にやっぱり、たまたま見たテレビで特集してたんだけど。迫力あんの。その積まれた量もそうだけどその彫ってある名前がね、なんかパワフルなんだ。意味が刻まれてるからかね。民俗博物館とかで農耕器具がわんさか寄せて展示してあったりすると圧倒されるでしょ? 物量と、それが実際に使われていたんだっていう記憶が表面に出てるからさ。それは意味だと思うんだ。物なんだけど意味をもって密集してるから、圧倒されるんだと思うの。ナチスの収容所の展示もそう。行ったことある? そこはね、私行ったことあるの。そこは実際に見たんだ。ビルケナウに行った。アウシュビッツも行ったよ。メガネの山とかさ、靴の山とかさ、松葉杖の山とかさ。海沿いの墓地でインタビューされてた人はね、なんとか送りの灯火を見て、あの灯りの一つ一つに意味がある。都会のビルの明かりとか、その住宅街の明かりとかとはまた違う意味があると思う。お参りに来た人のあかりは、もっと、何か、違う場所や人を、想って持ってくる火だから。火だからね、あれは、って言ってたな。意志を強く持たないとさ、つけたり維持したりできないもんね。送り火は。そうだね、送り火だよね。送るんだから、送る側と送る先を繋げるんだと思うの。そこを見るためというか、その場所を知らせるための印でしょ? そこにいるっていう証でしょ? カステラの下のざらめはさ、なんの証なのかな。何を繋げてるんだろう、って思ったの。コーヒーかな。なんか飲みたくなるもんね。水分持ってかれて。墓石って何で水かけんだろうね。あれで綺麗になるっていうのは半分くらいでさ、来たよとか言って水かけることあるじゃん。暑いからかな。お盆て夏だもんね。水かける挨拶なのに、なんか悪い気しないよね。海が見える墓地ってさ、海見るのは墓参りの人なんだよね。友達のおばあちゃんは、私んとこに来たらその面影貫いて私の故郷みたいな海まで眺めてって、てことなのかな。それはおばあちゃんの存在が墓よりも海にある気がしていいよね。骨はそこにあるんだけど、おばあちゃんはどっちかっていうと海だよね。私も死んだら海になりたいな。陸地がちょっと減っちゃうね。かなしい? 泣いてもいいよ。泣いたらさ、乾く前に台所とかでずっと泣いてさ、排水してよ。顔も洗ってさ。合流しよ。あんたから出てった分、ちょっと私になればいいよ。そうやって沢山集まって合流して海と同じになった私になったら、ドライブしてても朝でも夜でも、ちらっと海が光って見えたらそれはやっぱりもう私だよ。あんたとさ、私がそこで繋がるの。よくない? キラって、挨拶だよ。や、そこにいたの。よ、ここにいるよ。ウケる。なんかでも死ななくてもいいな。死ななくてももう海でいいよね。いろんな人が少しずつ集まって私って意味が仕上がってんだもん。もう海だよね。

奄美大島紀行

 去年の2月に友人がマッコウクジラと泳ぎに行った。私はクジラの歌を作って送った。無垢なものだ。友人は見事にクジラと出会えて、興奮のままに買っておいたGoProで撮った映像を送ってくれた。青の中に光線が差して、奥の暗がりがよりぼやけてきたと思うと次第に何か形らしくまとまってくる。その瞬間がどこだかコマ送りしても不明なほどゆっくりと唐突に、そのぼやけた形態はクジラになっていた。あまりの大きさのせいなのか、天体のように遅かった。生き物との邂逅というよりは、惑星との邂逅と言いたくなるような圧倒的な存在感だった。その時私は陸にいて、それも地下の職場で、一体何をしているのだろうかと思った。映像が見せる世界に自分がいないことが、現在身を置いている周囲の状況が、あまりにもばかばかしく思えた。私はクジラと泳ぐことに決めてダイビングのレッスンを受け始めた。その夏にスキンダイビングのCライセンスをとった。今年の夏に一度スキンダイビングで海へ行った。海へ潜ったのはその二回だけだった。クジラは冬になると子育てのために南下してくる。スクールのボードにあるツアーの日程を見て、10月に決めた。なぜか友人が行ったのも10月だったような気がしていた。今回改めて確認してみると2月だった。それにマッコウクジラではなくザトウクジラだった。勘違い、思い違いというのは恐ろしいものだ。本当に。

 

2024.10.2 水

 4日朝一番の飛行機に乗るために、3日の夜には千葉の実家に帰る予定でいた。成田空港の駅までは始発で行くにもその方が近いからだ。親にその旨改めて連絡すると母は忘れていた。飛行機の予約を確認すると、チェックインは90〜30分前までにせよとある。出発が定刻通りで厳守されることもこの航空会社の安い理由だから、早めに済ませるに限る。私は旅が嫌いではないが、こうした手順が厭わしくてたまらないあまりに家でうずくまっているような人物である。

 7時発の飛行機だから、5時半から開始され、6時半に締め切られる。実家から行ったとしても始発でギリギリ間に合わないことが分かった。明日3日の夜には空港にいて、そこでうずくまって過ごすことに決めた。荷造りも何もしていない。本当に行くのだろうか。実感はない。風邪をひいたのではないかと思うほど体が熱ぼったくて重い。先週末からずっとそれが続いている。無理に予定を詰め込んだ弊害で、始終追われるように仕事をしていた。ろくに仕事ができるわけでないのが燃料であるから、絶え間なく黒煙を吐いている。

 できないことを延々とやり続けるには精神力がいる。短時間で頻回に繰り返せる運動系であれば、初回よりも五回目、それよりも十回目と続ける中でできなかった事のいくつかが改善されたことに気が付きもするので、それがやり続ける動力になる。しかし能力を超えた仕事を暗中模索しながらとにかく形にしなければならず、どこまで行っても最終的には他人のジャッジによって根底から覆され、はなからやり直しになるかもしれないことに取り掛かり続ける動力は何か。恐怖である。身内のジャッジに刺される恐怖ではなく、外的にお披露目した時に、何も聴衆に効力を生まないのではないか、かえって損害にさえなりかねないのではないかという恐怖である。また、仮にうまく受け入れられなかったとして、そんな聴衆を蹴飛ばせるほどのことをしてきた自負があるかという問いに答えられない恐怖である。恐怖への対策というのはどこか単純なもので、実作業の積み重ねあるのみである。難しいのはそこへ向かう自身のコントロールだが、私は自分の制御能力を見誤ったスケジュールによって身体が膨張したように熱く、頭が霞にのまれていた。

 何を持っていかなければならないのか、はっきりしていない。暑いのか寒いのか。雨は降るだろうか。お気に入りの折り畳み傘は失くしたまま一向に出てこない。私は水筒に水道水を流し込み、黒いスニーカーを持って、ダンスのレッスンに出かけた。途中何度も引き返そうと思った。体の中身がどこかへ行ってしまって帰らないようだった。下を向いて、つま先だけ見て歩く。支払わなければならない金銭があるという言い訳を手綱にしてスタジオについた。踊ったあとには、胸が上を向いたので少し視界が開けていた。血の巡りが良くなって、すぐには眠れなかった。頭の中はやはり空だった。大きめのリュックに必要そうなものを詰めた。ノートパソコン、ゴーグル、シュノーケル、水着、Tシャツ。明日仕事から帰ってから改めれば良いことにして、面倒になったので寝た。

 

10.3 木

 先輩が休みで同職種は私一人だった。最初に来たのは、初めて会う人で、先輩がいないなら連絡をくれたらよかったのに、あなたがどうというわけでもないけれど、なんのかんのと言いながら来て早々帰ろうとする。流石に帰ろうとされたのは、私も初めてだ。一体何をしに来ているのか。なだめるように適当なことを言っているうちに、グイグイとその人は喋り出して、結局予定通りの時間いっぱい滞在した。それ以降は比較的スムーズだったが、夕方には糞詰まりになってしまった。私の仕事はほとんどが接客だから、対応内容が不味ければ送り出しても帰ってくる。午前最後に応対して、送り出した人が夕方に帰ってきた。その日のうちに戻ってくれるのだから、まだ幸というものだが、私は力量のないことをさもあるかのように振り回して1日を追い払っているのに過ぎない。全く浅はかである。その力量のなさの実質はコミュニケーション不足に他ならず、その核は相手の話を聞いていないことであるのに相違ない。

 昨日詰めたリュックは重いから置いてこようと思ったが、一度戻るのも面倒になり、何か足りなければ行った先でどうにかしようと思って、背負ってきたのが幸いだった。定時で帰れるかと思っていがそういうわけにはいかなかったので、朝の自分の判断を褒めた。それから有楽町で「ソング・オブ・アース」を見た。大自然の中で生活する人の映画だから、奄美に行く実感もない私は前日に見ておけば少しは盛り上がるかと思ったのだった。上映中には何度も深い眠りから覚めた。何度も覚めるくらいだから、浅いのではないかと思うが、時間的に短くとも眠りは深くなるものだ。目を開くと、凍った大河をスケート靴で滑り行く人や、解けた春の水面をカヤックのような細いボートで静かに進む人やスクリーン目一杯の満月や、その光が映り込んで輝く紡錘形に膨らんだ水平線などが広がっていた。とても綺麗だった。音楽は重低音がよく効いて、映像の世界にさらなる奥行きを与えていた。駅前の中華でラーメンと半チャーハンを食べて、日暮里からイブニングライナーで成田空港第一ターミナルに向かった。とにかく眠かった。

 航空機の手配は嫌いだが、空港は好きだ。そこは旅の喉元で、胃液に飛び込むまでの日常と非日常がないまぜになった愉快で曖昧なひとときである。人気のない白い通路の先の24h営業のコンビニで軽食を買ってウロウロしていると、改札周りのシャッターを下ろして閉めるからその一帯から離れなさいと警備の人に言われた。角のベンチで仮眠しようとしていた人や同じくウロウロしていた数名とともに追い出された。

 国内線の搭乗手続きカウンター付近のベンチへ行くと、空港泊の人らがポツポツといた。私はそこに加わった。持ってきていた数冊の本の中から知人が書いた小説を選んで読み始めた。しばらくすると電灯が消された。わずかに残った非常灯の薄い光線で、だたっぴろい空港は途端に小さくなった。数列のベンチにより集まった旅人たちの寝相の一つ一つが近くなった。何かを待っているための場所は、自分を宙吊りにしておけるからか、どうにも居心地がいい。

 

10.4 金

 9時には奄美大島に着いた。知人の小説は読み終えていた。他人との関わり方を模索する人が主人公だった。観光案内所にあった地図を眺めた。田中一村記念美術館が空港近くにあった。どうしても口が田村と言おうとするので、文字列を何度も確認する必要があった。美術館は奄美パークという奄美大島の文化を紹介する施設の敷地内に併設されていた。空港を挟んで反対側に貝塚の遺跡があることもわかった。パークへ先に行って、貝塚へいき、空港まで30分ほど歩いて戻ることにした。

 バスで奄美パークに着くと何か食べようと思ったが、中の飲食店はまだ開いていなかった。受付で貝塚に行くためのバスの時間を聞いた。受けつけの人は困っていた。その路線は今月から廃線になるんです。もう決まっているんだけど、適用されてるのかな。ちょっと聞いてみます、と言って方々へ電話をかけてくれた。なかなか返事が得られないので展示を見てこようとしたちょうどに電話が鳴って、やはり廃線になったのでタクシーで行くしかないということがわかった。

 文化紹介の展示を見て回るとやたらとお祭りが多いというのがわかった。八月踊りというのがお盆のお祭りのようだった。他に海際での神事が多かった。やはり島である。八月踊の紹介で映像に合わせて振りを覚えて、指示に従って踊ってみようというブースがあった。フリがあっていると得点になり、間違えずに続けられたり、タイミングがあっているとコンボになってどんどんと加算されていく。それなりにいい点数だったと見えて、ランキング1位になった。ダンスを続けてきた成果かもしれない。本日の得点の履歴には私と同じ得点数一つだけが表示されていた。

 田中一村の展示を見にくと、主要な作品のいくつかは上野での田中一村展に貸し出されていて複製が展示されていた。それでもいい絵であることは十分にわかった。奄美での作品以外では山紫陽花を描いたものが特に気に入った。この人は植物の他に鳥が大好きだったようだった。奄美に移ってからは染め物の職人として働き、数年かけてお金を貯めて、仕事を辞めて数年絵を描き、展示をして、職人に戻り、という計画を立てていて、仕事を辞めて絵を描くところまでは計画通りに行ったものの、展示をすることもなく、そのままずっと絵を描いていたようだった。自分の良心に向けて描くのであってそれ以外はどうということでもない、というような言葉が残っていて、いいことを言うなと思った。

 晩年の作品から見始めたせいかどうか、日本画だということが分かるまで少し時間がかかった。奄美での絵は、それほど独特の風貌をしていた。肉筆画の表面には僅かに盛り上がりが見て取れて、艶かしかった。海老と魚がぎっしりと密集しているくせに、整然と並べられた絵は複製画でも迫力があった。絶対に関連も何もないだろうに、どうしてもこの絵から想起される絵があったが、名称も作者も不明なので調べてみた。山下菊二の描いた「あけぼの村物語」だった。実際の事件の、その前後を題材に描かれた作品で、おどろおどろしいが、部分的にはコミカルでさえあり、緊迫したものが漂うくせにあっさりした夢のようである。なんのことやら。土地の匂いが立つような雰囲気と、凝集された画面の感覚がどこかで結びついたのかもしれない。

 外へ出ると一村が描いた植物を植えたエリアが広がっていた。どれも魅力的だったが、鳥のような形のオレンジの花が咲いているのが一番気に入った。そのエリアの奥に立つ展望台へ登ったが、特にどうということもなく、高いだけで、海が光っているのを見て、すぐに降りてしまった。居合わせた観光客が一人でずっと写真を撮っていた。撮影の間中嬉しそうにほんのり笑っていた。

 パークに戻ると食堂が開いていて、私は鶏飯を頼んだ。充電が17%くらいになった携帯をなんとなしに見ると、職場の先輩から連絡が来ていた。昨日応対して、夕方に戻った人からどうにも昨日から調子が悪い、それまで問題がなかっただけに気になって仕方がない、どうにかしてくれとの連絡があったそうだ。対応して、という内容だったので、連絡を返した。私はそれですっかり塞いだ気持ちになってしまった。

 食べた鶏飯が腹の中で石になっているかと思うほどだった。子山羊に石を詰められた狼は井戸へ落ちるが、体内の状況はなかなか近しいものがあるらしく、騒がしかった。空港までバスで戻って、タクシーを拾う作業はもはやできないことだった。まして遺跡を練り歩いて、空港まで帰り、さらにバスで市内へなどと想像するだけで余計に疲れた。パークからそのまま市内へバスで向かった。前の方に座ったら、ポスターやら何やらで窓が塞がっていて外が見えなかった。前方も段差になった台にボードが打ってあり、何も見えない。輸送中の非常用のトイレのなかはこんな感じかなと思うなどして寝た。

 宿に着くと荷物を置いて、外へ歩きに出た。宿泊の領収書の端に関連施設でのコーヒー割引券があったのでそこを目指した。コーヒーだけ持って海際の駐車場に出た。漁港は移動したらしく、市場だったらしい建物はシャッターが下りていたり開いていたりした。正面と思しき位置に張り紙がしてあり、移動先の説明があった。座ってしばらく海面を眺めていたが、暑いのでやめた。人の出入りがなくなって、錆びるばかりの建物を眺めた。内部ががらんとしていて、残された壁のいくつかにはスプレーで文字や絵が書いてあった。日が暮れると彼らはここを溜まり場として集まるのだろうと思うと、とても素敵だった。カメラを置いてきたことを少し悔いて、そのぶんじっと見つめた。カメラは宿に置いた気がしたが、そもそも家から持ってきていなかった。

 宿の向かいのコンビニでカフェオレとおにぎりとお菓子を買い込んで帰った。帰るとパソコンを開いて仕事をした。つまらない話だ。夜になると鰻を食べに出た。街の地図でチラと見てから決めていたのだ。三昌亭は老舗らしかった。鰻重と肝串を頼んだ。急須ごと来たお茶を紅い九谷焼で飲みながら奄美新聞を読んで待っていると、船橋アンデルセン公園でおばけススキが見頃と写真付きで紹介されているのを見つけた。地元のニュースを奄美で見るとは思わなんだ。妙な心持ちで、前からこの店に通っているような気になった。品が届くと、お吸い物も茶碗蒸しもついていた。炭火で焼いた独特の火の匂いが移ったような焦げから始まって、肉厚の身と染み込んだタレの甘みがたまらなかった。私はうなぎが大好きだが、これまでで一番かもしれない。

 幸せな気分で店を出た。もっと奥へ行くとあるらしい高千穂神社へ行こうと思ったが、なんとなくよして、市内を歩いた。昼間に外へ出た時の方向感を頼りに、海へ向かって歩いた。飲み屋や食事処が集まった通りを抜けると、商店街に出た。明かりはついているがもう誰もいない。おりたシャッターに山形屋とあり、ああここはやっぱり鹿児島なんだと思った。ジョナサンがホームセンターではなく、ファミレスである場所。そのまま人気のない商店街を歩いた。暗い看板の脇に青いタライが置いてあった。中にはどうも死んだ珊瑚のような棒状の白い、互いを打ち鳴らすとリンと鳴るものと、握ると具合の良い大きさで全体に無数の気孔のあいた白い塊などがザラザラとあけられていた。タライにはご自由にどうぞとあった。これはとても良いものだと感じて、握ったり放したり、鳴らしたりして選んだ。膨らみの多い勾玉のような塊と、餃子か雲か子供の掌のような形の白いものを選んだ。握って歩くとさらに具合がいい。手の内に沿う。あまりしっくりくるので自分の手から出ていって、あそこで私をサボっていたのではないかと思うほどだった。見つかってしまったね。おかえり。

 グリーンマートへ入り何も買わずに出た。どこへ行きたくもないがなんとなくの定めた方向だけ守って歩いた。川沿いの道をいくと、途中から水だった。今日は新月で大潮なのだ。信号が赤く映ってギラギラした。すぐ横の道を陸から少年が自転車で過ぎていった。公園には誰もいないが、白い街灯に照らされて、先の尖った大ぶりの南の植物がよく見えた。一つ陸へ入り直して、歩き出した。暗がりの中に遠く橋が渡っていて、街灯が二つだけ光っていた。その先に薄い小豆色の光が四角く見えたのでそこを目指すことにした。AEONだった。インベーダーゲームの宇宙人の絵が壁面高くに描いてあり、アミューズメントのエリアに行かねばなるまいと思った。入ってみると意外と狭かった。ほとんどがUFOキャッチャーだった。とりあえず品を見ながら通り抜けて、隣にある文具売り場に出ると、書道用具のコーナーで防犯カメラとその映像を映すモニターと目が合った。モニターに映し出された私は浅葱色のキャップを被り、ツバに備え付けられたような大きめのメガネをかけていて、髭がのびて頬がこけていた。面白かったので写真を撮った。写真を見るとこの人怖いなと思ったので、そうそうに降りて、食べ物と飲み物をたくさん買った。

 旅先を練り歩くのが好きだ。観光名所でもそうでなくとも、その街に暮らしていたらいくだろう路地や、なんとなく疲れて座るだろうベンチや、一人でいたくなる時にいくだろう公園や、海と川の接合部や、十字路の一角でなぜか街灯の光を単独で浴びている旧花壇に生えたぼうぼうの草むらなど、なにかそういう街の七癖みたいなものに会うと、自分もその中の一つのように思えるのかもしれない。許容されていく気がする。一通り練り歩くと、着いたばかりよりもこの街のことを知った気になれている。あっちにいくと彫刻がいっぱい立っている公園があるよ。管理があまりされてなくて草が長いから足を切らないように気をつけて。端っこで暗いけど、ベンチがあって気分がいいよ。近くの自販機にはヤモリがいた。パインのジュースが飲みたいな。

 近隣にあるホテルⅡへいって、大浴場に浸かった。明日は海でこうするのだ。ホテルの朝食の時間と集合時間の間が1時間あるのを見て、でも起きられないから、30分だなと確認して眠った。

 

つづく

ぺしゃんこペシミストmist

 街灯はおおむね橙色がよい。特に雨の降ったあとで夜更けの散歩などに出ると、いつになくアスファルトが親身に感じられる。あんなに普段素っ気ないくせして、こうなるととろりと曖昧な態度である。それがどうも中途半端に日々を過ごす気質と似通うのか、散歩の当てのなさに共鳴するのか、自分を呼んでいるなという気がする。その点においては、夏の盛りの逃げ水と似たようなところがある。山の中ならウスバカゲロウだろうか。そのまま案内にして進んでいると、いつの間にかどうしようもない断崖の先に躍り出てしまいそうな気もする。しかし何かに呼ばれるということは、そこが一つの断崖であるようなものでないだろうか。何の断崖なのか。今いるところと向こうの境。そこからもうひとつ、こっちへおいで。それは向こうという感覚から逆説的に強度を増すこちらが、現在地点という屁理屈を支えるための範囲設定として、境界を拵えるという順だろう。一体向こうというのはどこから来るのか。そう思って水平線を脳裏に眺めてしまうのは島国根性か、地平線に膿んだ平野の民の習性か。

 トボトボと歩いていると、特にワケもないというそのことが、次第に行動と目的を循環させていくようなところがある。歩くために歩いているという感覚はそう悪いものではない。そうしていると、地面から体が浮くようだ。いや、体をすっかり地面に預けてしまえるようだ。地盤の確かさが私の小脳となって、歩行のパターンを維持してくれる。その間私は好きにしていられる。不労所得でのんびり暮らすようなものだ。日常一般は道路がやってくれるので、のんびり私は遊離できる。

 田舎の道の幅広い濡れた夜の坂道には、いろいろなものが落ちている。群れで身投げしたタバコの吸い殻とか、片方しかないサンダルや軍手、中身のない財布、家電、など他愛のないものがほとんどだが、たまに潰れた動物がいる。その上を何台もの車が往来したとみえて、刷り込まれたようにネズミが平たくなっていることもあれば、ぐったりとした厚みによって機械が避けて通った結果、自らが塚のように道で盛り上がったままの狸もある。私はそれを見つけると、しばらくの間じっと見つめる。ネズミやカナヘビはよくぺしゃんこになっている。猫より大きいとなると、そうそうその厚みは失われない。元が大きいのか、潰された回数が少ないのか、半分平で半分厚いネズミなどもいる。厚みというのは何だろうか。認識可能な生活次元の事物は、その+1次元がスライスされたものだということを確かデュシャンは言っていたが、そのスライスが持つはずの極薄の厚みというものは、何度も何度も私に訪れる観念の一つだ。私にとっての向こうを支える音源の一つだ。頭の中で会話が始まる。

 A:宇宙が膨張してるっていうだろ。あれを何か膨らんだ感じで好い方に捉えてるのか、すごいすごいって手叩いて目きらきらなのがいるだろ。俺はそんなはずはないと思うんだ。膨張してるって言われて実際、膨らんだ感じするか? 中にいるんだから、考えてみれば中がどんどん広くなっていく感じで愉快だって、そういうことなのかな。

 B:収納スペースが増えるのが大変ありがたいね。

 A:増えるならな、そうだよ。でも俺は押しのけられてるって感じが強くてさ。恐ろしいんだよ。だいたい膨らむとして起点はどこだよ。ビッグバン、とかいうけどそこは定点なのか? 一端が閉じていて、反対側が開いている筒なのか? それじゃ膨らまないか。膨らまないよな。でも反対側は閉じることもできるのかもしれないよな? 鼓膜だって鼻や口を閉じたら内へ入ったり外へ張り出したりするんだから、膨張した宇宙がいつ跳ね返ってくるか分ったもんじゃない。宇宙も中耳炎になるだろうか。いやしかし、それで押しのけられる感じがするってんじゃないんだ。膨らむこと自体が抑圧だろう? 考えてもみろ、どんどんどんどん押しのけられた宇宙の最外皮はその分平たくなるんだ。無限の弧を描く訳だからな。俺たちにとっちゃそれはもう直線と変わらないほどの巨大さだ。ああほらやっぱり筒なのかもしれない。

 B:アイロンをかけるっていうのが、俺は結構好きなんだ。もうほとんどやらないけどね。ああして熱して圧して引き延ばした平面にスッと袖を通すと膨らむだろう。あの温もりと肌に沿う感じが気分いいんだ。

 A:それは宇宙創生の神の理屈だぜ。そんなふうに気分で宇宙を伸ばしたり膨らましたりされちゃ困るんだ。そこに住んでるんだからさ。俺にも生活があるんだ。そんなに伸縮してられないよ。海じゃないんだから。

 B:海は伸縮してるのか。

 A:潮の満ち引きってそうだろう?

 B:そうかな。

 A:そうだよ。あいつら皮膚がないもんで、仕方なくああやって伸び縮みしてんのだろ。俺はずた袋でも皮膚があるからな。そう易々とはいかないね。

 B:そうかな。

 A:そうだよ。あれ、もしかして宇宙にも皮膚がないのか。

 そのうち立っているのが面倒になって、どうせ人も車もないから、もう少しよく見ようとネズミや狸の横へ、そっと寝そべる。最初は平らな厚みの顔を眺めて添い寝しているが、横になっているとどうもその姿勢でいるには地面が硬いので、ひっくり返ってあおむく。空を見ていると、横で平らな生き物がこっちを見ている気がして、たまにチラと目を合わせようかと思うと見ていないのでまた空へ戻る。するとまたこっちを見ているような気がする。気がするが、次第に平らな生き物がネズミなのか狸なのか道路なのか地表全般なのか分からなくなる。面倒だから空を見たままでいると、どうしたことか俺はさっきまでよりも平らだなあと思う。しかし自分の厚みがどこか変わっただろうか。立ったり座ったり寝そべったりで厚みが変わるのだろうか。そうしてみると、どうも横から視線を感じるということも、私が立っている時に見た横たわる動物が、自分と同じ角度になっているということから来ているような気がしてくる。

 寝ている時にうっすらと目を覚まして、見えた人影が幽霊か面影かどうかというのは相対する角度で判別がつくので何もたじろぐことはない、自明なことだと南方熊楠が何かに書いていた気がするが、どこだったか、内容の詳細とともに忘れ去ってしまってどうにもならない。幽霊の対比はなんだったか。脳の皺も平らに伸びてしまったのかもしれない。

 角度というのは不思議なものだ。その変化で表されるという速度もまた不思議なものだ。谷になった田舎の坂道を降りていくとどうも時間がこんこんとそこへ流れ込んで停滞しているような気がする。気がする、ということばかりだが、それが私の輪郭を成すので仕方がない。はっきりこうだ、ということは輪郭どころか骨子でもなく、私から遠く離れて私を構成することを諦めたものをいう。戻ってくるならそれもいい。友というのはもしかするとそういうものかもしれん。

 轢かれて死んだ動物と傾斜を合わせて過ごしていると、それはやはり時間感覚が影響を受ける。傾斜の変化は空間の定め方の変化だから、当然の話だ。ところで時間と空間が速度と関係してくるということは、すなわち光の問題である。今、横の動物と私とでどちらがより光っているだろうか。私は発光する術を持たないので、光源を跳ね返すより能がないが、寝そべってみえている星と同等であるということでよろしいか。いや、あの星のうちのいくつかは自ら発光している。すると、連中からすると自らの発光の跳ね返りを私として見て眺めて喜んでいるかもしれない。おい見ろよあの平べったい光! きれいだなあ、とかいうのだろう。光の届かない深海に住む魚が白いのには納得がいっても、自ら光る術を獲得するに至ってはどうにもわけがわからない。どうして光というものを知り得るのだろうか。

 A:昔手酌ですいませんとか言いながら放射炉をざぶざぶやってたら、死んでしまったという事故があっただろう。あの人たちはざぶざぶやってる間、青い光を見たらしいな。

 B:そういえばあった。もう話題として聞かなくなって久しいね。随分な事故だった。その青い光はつまるところ放射能で、細胞を死滅させるから、皮膚が代謝しないので人体は随分な状況に置かれる、というのを聞いた時には改めて恐ろしくて身震いしたよ。

 A:そうだな。全くだ。光がなぜ青いのか、気になったのでその頃聞いて周ったんだ。曰く、光速を超えた光だというんだ。意味わかるか? 音速を超えて飛ぶと衝撃波が後から出るだろう。あれの光版だという。光が最速なのは真空中のことで、液体は気体の中よりも伝達速度が落ちるから、その媒質内では光速を超えることができるとそういうことだそうだ。その時の歪みが青く迸るんだと。分かるか? 俺には結局なぜ青いのか、ということは曖昧なままだが、海とおんなじなのかな。

 B:海や空と同じなのかな。光が青いという土台は確かにあっちやこっちで違ってくると困るから、理屈は同じだと見ても良さそうだけど。分からないね。文部省の一家に一枚でも見てみたらどう? 電磁波についての一枚があるだろう。

 A:あとで見てみるよ。下敷きにして毎年ランダムに配ってもらいたいね。

 夜の田舎道は暗い。街灯の間隔も広い。曲がり角や森の一層深い暗がりは、そばの街灯のせいで距離もない闇になっていて恐ろしいが、ひとつ踏み込んでしまえば、月光や星明かりでかえって周囲がよく見える。そのまま標高が高くなったような空気の澄み方を感じながら歩いていると、広大な畑に出たりする。そこは月光のせいなのか、媒質の異なるものがひしめきあっているのか薄青く光って見える。私はなんとはなしに来た道を振り返って、さっき傾斜を供にした生き物を思う。もしかすると、私が出会う少し前にはあの生き物も青く光っていたのかもしれない。畑に向き直るとどこまでも平らに膨らんだ土地がやいのやいのと空へ伸びようとしていた。どうもこの薄青さは、何か私の伝達率を超えたところではじけた光が霧散して、残りがまだきらめいているように思われてくるのだった。

コアラの脳と冷奴

 コアラの脳の画像がSNSで流れてきた。ご覧になった方も少なくないだろう。見事にツルツルである。皺のひとつもない。形ばかりが脳で、むしろよく似せてあるとさえ見える。発生学というのか、形態学というのか、流体力学というのか、直進する煙のように、頭蓋骨内に突き進んだ脊髄が捲り上がって収まった内臓という形であることはコアラでも変わりがない。コアラはとにかく何ということもなしに木から落ちてしまうことがあるらしく、その衝撃から脳を守るために頭蓋骨は緩衝材としてクモ膜下腔を厚くさせたらしい。水に落ちても特別足掻くまでもなく頭部を上にして浮くのじゃなかろうか。コアラの脳を見ていると、うなぎの肝にも似ている気がする。巷を流れるコアラのどうしようもないエピソードと併せて、余計にその直進性というのが際立って見える。

 

 脳には皺が多いほどよいとされている。その分面積が増え、使い道もたくさんあるということだろうか。ヒトの脳については大まかな皺にナニナニ溝とかナニナニ回とか名前がついているくらいだから、大きな皺の多少については誰もが大体同じということになっているはずだ。その溝の深さや、回り込みの角度の大きさで使いっぷりが語られるのだろうか。あなたは脳梁が太いね、と言われたことがある。一般に理性的な左脳、感性的な右脳というのを真に受けておくとして、脳梁というのはその左右にわたる接続の軸だから、左右満遍なく使うことで架け橋が太く逞しいに違いないという褒め言葉だが、後にも先にもそんな褒め方をしてきた人はその人だけである。実に独特な言い回しだと思って、そちらに気を取られるばかりで褒められたという感が薄かった。別の言い回しで複数回褒め直してもらいたい。ところで左や右の脳の使いっぷりを感じるのはそれぞれどちらの側だろうか。

 

 皺々で折りたたまれていると言えば腸もそうで、胃から先でもびろびろと押し広げていくとテニスコート一面に相当するとかしないとか聞いたことがある気がする。その面積の消化粘液の床を想像すると、開かれた巨大な食虫花のようでもある。その区画は大気圏に至るまで何か吸収に向けて引力を感じないでもないのではないか。制空権の概念はもしかするとこういう感覚から捻り出たものかもしれない。

 腸は第二の脳である、と言われるようになってから久しいが、ついに脳よりも先に腸があるのであり、むしろ脳が第二の腸なのだという話が出てきたそうだ。特に疑問はない。しっくりとくる。しかしどういうことかは不明である。牛は草を食むが、草自体はまるで牛の栄養にならず、4つもの胃を駆使して何度も飲み込んでは口に戻してすり潰しに潰して食べたものは、胃のなかの微生物の栄養になるだけで、牛の栄養はその微生物の排泄物だということはそれなりに有名でありかつ今もなお意外な事実だが、本体というのはどちらだろうか。微生物は第二の牛か、牛の第一が微生物なのか、牛とは消化・吸収・排泄のプロセスを表現したものを言うのか。そうなると私と牛の違いを支える表現様式の違いとはなんなのか。牛の乳を飲み、牛の肉を食べる私は牛の第何段階目だろうか。それとも草の第何段階目かだろうか。その前は土だろうか。土はどこからきたのか。岩が砕けた砂からか。岩はどこからきたのだろうか。段階という設定の仕方はこの場合に適しているのだろうか。ビッグバンの音は今も胃腸に響き渡り蠕動運動を促進するのに違いない。宇宙もまたしわしわに折りたたまれていて、私はその折り目の角の一つの先端に過ぎないようにおもわれてくる。

 

 冷奴はどうも食べるには冷た過ぎるが、それが良さの一つであることを認めている。しかし、ほんだしに浸かる湯豆腐が一番好きだ。コアラの脳だって食べるなら新鮮な方が良い。新鮮であるということはまだ温かいという事だ。木綿地はもしかすると折り畳みの皺が刻まれているに見えるかもしれないが、やはりここはつるつるがいい。あの滑らかな光沢が私の内蔵のひだを撫でてさっさと次の段階へ踊り出すのを、きっと今夜の夢に見ることだろう。内蔵のピンクが映り込んだ絹豆腐のひと崩れは、ともするとコアラの脳なのかもしれない。